尾崎豊

Navigator 尾崎豊 New Yorkの記録 2

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信国

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Yutaka Ozaki
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02. Appearance

古い話である。

1986年、ニューヨークの

コロンビア大学歯学部にいた時のことだ。

マンハッタン106 Streetに

アイビーリーグに属する

コロンビア大学のメインキャンパスはある。

いちご白書で有名になった法学部図書館と

総合図書館とが向かい合う芝生の広場は、

ルー・ゲイリックが野球をしたという

グラウンドの跡なのだそうだ。

その傍らの煉瓦道College Walkは

今でもよく留学雑誌などの

グラビアに載ったり、

ニューヨークツアーバスの

寄り道になっているため

知っている人も多いだろう。

しかし、

この話の舞台はメインキャンパスではなく、

そこから北に向かってしばらく行った

168 Streetにある

メディカルキャンパスである。

場所はスパニシュハーレムと呼ばれる

ニューヨークの危険地帯の一角にあり、

白昼堂々、四つ角には薬の売人が立ち、

殺人や強盗は普通のできごとのように

頻繁におこっている所であった。

薬の売人はピットブルと呼ばれる

犬を護身用につれていた。

体は中犬くらいで、

一見しただけでは

威圧感はそれほどでもないのに、

性質は異常で命令を一旦受けると

喉仏を食い破って殺戮を

簡単に行うという凶暴な犬である。

そんな連中が徘徊しているため、

一人で大通りを午後1時に歩いても

背筋が一瞬寒くなるような出来事や、

いわゆる殺気を感じる

ことがある街であった。

つまり、

俗に言われるスラム街だったのである。

GEORGEANという

寮の屋上から街を見おろすと、

何もかもが、煤けたような

暗い色に包まれていた。

遠くには

ダウンタウンにある高層ビル群が

靄の中に浮かびあがり、

幻を見ているような感じがした。

通りを隔てた向かいには古いが故に、

天にそびえ立つような威容が

強調された医学部附属病院があった。

その20階あるビルの

3、4階の2フロアーという

僅かなスペースを占めて

歯学部と歯学部診療室があった。

学部廃止がうわさされていた

この歯学部専属図書館には8畳くらいの

狭い1室が与えられているだけで

蔵書数は100冊にも満たなかった。

これだけで、コロンビア大学が

歯学部にかける

意気込みのほどがよくわかった。

それに比べ、

医学部附属図書館は10階建ての

ポストモダン風のビルで新築間もなく、

蔵書数は

「数え切れないがたぶん医学部では世界一」

と言われていた。

ある日、

歯学部治療室の受付から呼び出された。

呼び出すアナウンスのことをPAGINGという。

そこにはウエストチェスターの

ゴルフ場で偶然知り合いになって、

何故かおれをゴルフの師と

仰ぐようになったコーヘンがいた。

実家は裕福でなかったために、

ゴルフは歯学部を卒業するまで

したことがなかったが、

知り合いや、同業者が

皆ゴルフをやるというので、

仲間外れにされないように

始めた手合いであった。

ゴルフが好きで

上手くなろうということではない

動機の不純さは、

能力の進歩をもたらすはずもなく、

結局はいつになってもへたくそで

皆の足手まといになるため、

一度誘われた人からは、

再度の誘いがかかることはなかった。

しかし、

一応負けず嫌いの性格であったから、

このままではいけない、

迷惑をかけない程度にうまくなって、

常に誰かに誘われるように

なりたいと考えていた。

だから今のところは

ゴルフ場には一人で来るしかないため、

知らない人と組まされていた。

その中の一人におれがいたのである。

場所は30ドルのグリーンフィーを払えば

プレーできるという

セミパブリックコースであった。

当時はこの値段を払い

プレーするというのは

メインテナンスの

良いコースの部類に入った。

日本で言えば

武蔵の豊岡というコースが似ていた。

近隣の市営のパブリックは

10ドルくらいが相場であったが、

何時行っても荒れ放題であった。

コーヘンはドライバーよりも

クリークの方が距離が出る

という程度の実力であった。

最初に会った時、

力んでばかりいたので、力を抜いて、

フィニシュで右の踵を挙げるように、

見るに見かねて3ホール目でアドバイスした。

すると急に良いボールが出るようになり

狙った場所の近辺に行くようになった。

コーヘンはその日結局92でまわった。

これが人生で初めて100を切った日であった。

バーディーも17番のショートホールで取り、

これも人生で初めての出来事だった。

「何十時間もレッスンプロに

レッスン料を支払ったのに、

今まで起こらなかったことが、

たった1回のアドバイスで起こるとは、

あんたはゴルフの神様の使いなのか?」

と聞かれた。

それから、勝手に師匠にされ、

10月まで毎週日曜日の午後を一緒に

ゴルフ場で過ごすことになったのである。

コーヘンはユダヤ人であるから

教会へは土曜日に行く。

教会は社交の場であり

必ず行くことにしていた。

コーヘンは ENDOdontics (ENDOと略す)

と呼ばれる歯の内部の

神経を治療する科の講師であった。

講師とはいっても大学の給料は

月15万円くらいで、

収入の大部分(60万円くらい)

は週に2日、

大学の施設を使って行う

自分の患者さんからの治療費であった。

半分は自分で取り、

あとは大学のものになった。

アメリカの歯学部の教官は

みなこのような

診療形態で収入を得ている。

日本の大学でこれをやると

99パーセントの教官は

生活できなくなるそうだ。

技術がないのに

大学の教官になれる日本は、

できない教官には天国であり、

学生と患者にとっては地獄である。

*****

コーヘンは35歳、独身で、鼻が大きく、

アート・ガーファンクルのような

カーリーヘアーで身長が160cmしかなかった。

要するに不男である。ちんちくりんである。

従って、

白人の女性には相手にされないため、

彼女は自分よりも小柄で、

ユダヤ人に特別な意識を持たない

東洋系の女性を選んでいた。

「日本の女性は清潔だから特に好きだ。」

と聞く人によっては、

問題を起こすような発言をしていた。

「実は今、紹介されて来ている患者は、

英語が話せないので困っている。

しかも少々暴力的だ。

全くTP (Trouble Patient) だ。

アシスタントをしながら、

通訳をしてくれないか。

時給15ドルだすからさ」

というので付き合った。

コーヘンの妹は音楽関係の仕事をしており、

ニューヨークでも顔が利いた。

特に日本の音楽関係者には

知り合いが多かった。

確かにMOMAの向かいのオフィスに

一度遊びに行った時、壁中に貼ってあった

有名無名取り混ぜた写真の中に

見たことのある日本人の写真も混ざっていた。

郷ひろみや美空ひばりの写真は

芸能音痴のおれもわかった。

でも

北島三郎や五木ひろしがいたのは何故だろう。

日本人相手の講演を

ニューヨークでしていたのだろうか。

アメリカ人が

演歌を聴いて喜ぶわけはないから。

日本から来て、長期滞在している

ヤングミュージシャンが夕べから

歯が痛くなり困って、知り合いに電話をした。

医療関係に知り合いのないその人は

仕事相手のコーヘンの妹に

相談したのだそうだ。

朝一番でダウンタウンの

日本の大学歯学部を卒業して、

アメリカで開業医試験に通った

日本人の歯医者の所へ連れて行くと、

着くや否や喧嘩して

飛び出してしまったのだそうだ。

理由は不明である。

おれとコーヘンの間ではこれ以降、

この患者はTPと呼ばれた。

Trouble Patientの略である。

だからここでもTPと呼ぶ。

TPは当時SOHOで

流行っている服装があって、

その格好をしていた。

同じ寮にジョージアから

公共衛生学の大学院にきていた

トロイというのがいた。

新学期の始まる頃、

カフェテリアで初めて会ったとき、

話すことがないので、

着ている風変わりな服を褒めてやると、

自分の着ている服やズボンは

アンティークと呼ばれていて、

SOHOのアンティークショップが

英国の古い工業町の古着屋から

良い物だけを仕入れてくるのだと、

延々と教えてくれた。

TPはトロイの格好と全く同じであった。

それが体になじんでいて

ニューヨークに来て

随分経っていることがわかった。

多くの短期間滞在の日本の旅行者も、

その格好を争うようにしていたが、

どこか浮いた感じがあり滞在の

長短はすぐに判断できた。

ポイントはシャツの襟と上着の袖口、

ズボンのカフと靴のくたびれ方にあると

トロイはいつも言っていた。

そのひとつでも欠けたら、

COOL! とは呼ばれなくなるのだそうだ。

トロイにTPのことを話すと

「一度その服見てみたいね。」というので

2度目のアポイントメントのとき、

待合室で紹介した。

5分くらいの対面であったが、

「あの服にはだいぶつぎ込んでるよ。

行っているのはSOHOのKで

ジャケットだけでも

1000ドルはするね。」と評価した。

最初の問診はおれがした。

取っつきは悪く、

質問に答える口振りも戦闘的であった。

要するに態度は相当悪かった。

ふてくされている上に、答えも素直でなく、

こちらに喧嘩を売るような態度であった。

これなら問診の仕方を知らない

日本人相手の歯医者の所では

追い出されるのは

無理もないだろうと思った。

しかし、ここはニューヨークであり、

だれも他人を信用しない町である。

TPの態度は

自分を悪い奴等から守ろうとする

自然な自己防衛的な態度であった。

初対面の人に隙を見せると命が危ない、

というのはニューヨーカーの常識である。

従って予定変更で、

問診をフォーマルからカジュアルへと変えた。

「お名前は、えー、スペルはOS

ではなくてOZですね。

有名なXムービーのスターと同じですね。

エンターテイナーですか。

紀世彦さんはおにいさんですか?」

下らないおれのジョークに、

「いえ、兄はYasushiです。」

とまじめに答えたりして、

全く嫌な感じはしなかった。

直感的にこの人は優しい人で、

おれとはうまくゆくと思った。

「親戚にJUMBOという人はいますか?」

という問いには、

一瞬はっとしたらしく、

しばらく考えてから、にやりと笑って、

「いません。

でもCOMBOはよく知っています。

いつもマックで食べてますから。」

と答えた。

おれが大声で笑うと、

TPも思いだし笑いをするように笑った。

これがアメリカの問診の方法である。

まずリラックスさせて

緊張をとくのが治療の第一歩なのだ。

日本にはこれがない。

教える人もいないし、

習おうとする人もいない。

TPはこれで精神的に完全に解れていた。

症状は5本の奥歯が

滅茶苦茶な治療をされており、

神経の治療のやり直しが必要であった。

特にその内の2本は

現在我慢出来る限界を越していた。

はじめは知り合いが

通訳を買って出るという約束で

治療をすることになったが、

音楽仲間では英語の達人

と呼ばれるMASAでも、

医療行為になると

全く使い者にならなかった。

そこでおれに

お呼びが掛かったのである。

コーヘンが麻酔を打ったとき、

「痛てーっ!」

と叫んでTPは自分の右手で

コーヘンが麻酔注射を

持っている右手を掴んだ。

コーヘンは怒って、その手を払いのけると、

「こんな奴は誰か

他のドクターに見て貰ってくれ!」

と言って診療室を出て行ってしまった。

痛みを持つ患者を目の前にして、

去ったコーヘンもコーヘンであるが、

悪いのは患者も同じである。

TPは自分でも悪いと思ったのか、

騒ぐのを止めて、

目に涙をためて唇を噛みしめていた。

こうなると、もうカジュアルにはいけない。

まじめな話をするときが来たのである。